「昔話」カテゴリーアーカイブ

11号機の思い出|初の専用機設計と防塵実験機

昔話です。

10月25日は今無き11号機の竣工日です。このマシンはMacintosh LC 475の後継機のメールサーバとして組んだマシンですが、初の専用用途設計と初の防塵対策の検証機という2つの側面を持っています。今回はメールサーバではなく、専用用途設計という自作機の設計に至るまでの過程と、防塵対策の実験に敗北について書きたいと思います。

11号機の概略

1号機の概要はここ(さっきの11号機と同じリンクです)です。要はPrescott-V Celeron D 331を積んだベアボーン機です。Pentium Dはデュアルダイ※(≒大体デュアルコア相当)ですが、Celeron Dはシングルコア・シングルダイのCPUです。マルチコアとかアウトオブオーダーとかそういうスマートな概念はなくて、純粋にクロック周波数の高さ(と発熱量)で殴るタイプのCPUを積んだマシンです。

デュアルダイというのはCPUパッケージにダイを2個詰んだCPUです(正確にはMCM)。現代のコンシューマ用CPUは通常1つのパッケージに1つのダイが存在し、そのダイの中に複数のコアを実装してマルチコアを実現しています。しかし2005年ぐらいまでのCPUは1ソケットに1ダイ1コア(シングルコア)が普通でした。コアが複数欲しい場合はCPU自体を複数搭載するのが一般的でした。で、2005〜2006年頃はデュアルCPUからデュアルコアへの過渡期で、そのなかでシングルコアのダイを2つ、1つのパッケージの中に無理矢理押し込んで“デュアルコアのような何か”にしたのがこのPentium Dです。PCからのデュアルダイの見え方は今のデュアルコアと大きくは変わりません。まぁHTTもありましたね。

後継機は13号機初期構成です。諸事情あって11号機は2年足らずで引退させましたが、引退後はPrescott-Vの消費電力の高さ、ケースの排熱能力の低さから11号機2期構成にはせず、検証や作業でで一時期に使ったのち廃棄しました。

専用機設計

11号機は初の専用用途設計のマシンです。専らメールサーバとして運用するため設計となっています。専用用途設計とは、本記事では用途変更、つまり他用途への転用を一切考慮せず、当初の用途に特化して最適化した構成のマシン(ほぼ自作機)のことを言います。

実は10号機以前の2台ある自作機は汎用用途設計になっていて、ライフサイクルの中で用途変更を考慮しています。潰しが効く設計ということです。そのため2台ともATXマザーを積んだミドルタワー機でメモリスロット、PCI、ストレージ(当時はHDD)も多数搭載可能なようにしていました。また光学ドライブを標準装備にしていました(当時はUSBメモリからブートできないのが普通でした)。まぁ当時も金が無かったので多数搭載可能ではありましたが、1台しかないのがザラでした。

そんな感じの用途変更を考慮せず、メールサーバ運用に特化した構成、つまり専用用途設計で初めて建造したのが11号機です。ストレージ(当時はHDD)は増やさないので1台ないし2台も積めれば十分とし、当時標準として光学ドライブも「必要な時は他のマシンから一時的に借りてくればいいや」として省きました。また、PCIも「積まないから要らない」として極小化し、メモリも2スロットに抑えて、MicroATXで構築しました。こうすることでマシンの小型化・低コスト化を実現したのが11号機です

小型化するならMini-ITXじゃないの?と思うかもしれませんが、2006年当時はマイナーなフォームファクタです。2026年現在でいうとMini-STXとかMini-DTXとかぐらいのポジションです。Mini-STXやMini-DTXがMini-ITXのようなメジャーなフォームファクタになるかはわかりませんけどね。

なぜ専用機設計になったのか?

11号機は「計画外機」だったので、汎用用途の設計にする金がありませんでした。これが真相です。

私のマシンリストをみると大量に自作機がありますが、11号機と34号機以外は全部「計画機」です。計画機は前々から購入が必要なことを認識していて、構成検討ののちに資金確保してからに導入しています。

計画外機は「どうにかして新造しないと困るからとりあえず建造する」という状態で建造します。流石に予算表はありますが、今すぐに出せる金額が合計の上限で、構築期間も今日秋葉行って作るとか、通販だと調達のリードタイム込みで2〜3日で作ってたりします。パーツも極力予算カットして作っています。

さて、11号機の先代のMacintosh LC 475(3号機 1996年製)は、2006年10月に入ってからサーバダウンが頻発していました。原因がHDDなのはわかっていたのですが、この先代機のHDDはNarrow SCSI(50pin)という20年前(2004〜2006年当時)ですらも秋葉ではレアと言って差し支えないIF規格で、互換性があったSCA80という規格のHDDすらも入手が難しくなっていたのが当時の状況です。

そんな状況だったのでいいかげん新しいマシンを新造しないとまずいのは百も千も承知だったのですが、この時期は金の余裕が全然ありませんでした。実際、秋葉原行って構成を練る(※)も手持ちの資金で買える額にならない、という状態で結構困っていました。

※秋葉原行って構成を練る: 2006年当時は2026年現在と比べるとPCショップが比べ物にならないぐらい多く、店頭回って安い店でパーツ買い回って組んでいました。

ただ、とはいえ、LC475のメールサーバの方は運用がままならない状態なので、今日マシンが自作できるパーツ1式をアキバで買って持って買えるというのが当時、というか20年前の10月25日の至上命題でした。

専用機誕生

そこで、どうにか手持ち資金に納めて自作するため、メールサーバ専用機にして転用なんか考えない、つまり専用設計ということにして、光学ドライブなどの当時標準としていた装備の省略や、メモリを大胆にケチって、ソフマップだかで見つけたベアボーンで徹底的に安く作ったのが11号機です。

こんな感じで11号機は一式を23,000円で新造しました。

本体、電源、マザボ、メモリ、HDD全部新品で買ってこの金額です。本体、電源、マザボがマウスとキーボード付きのベアボーンで9,900円でした。安い安い言ってますがベアボーンキットを安く買えたのが大きな要因です。この辺は概要で書いてある通りです。この23,000円で新造ですが、20年経った今でも最安で、私の中で全部新品でこれより安く建造できたマシンはありません。

その後の11号機と得られた知見

11号の評価はここで書いてある通りです。本体、電源、マザボが9,900円という破格の値段だったと言うのはまぁ、そういうことです。まぁPrescott対応マザーの割に排熱の弱そうなケースだった(そして実際に弱かった)ので売れてなかったんでしょうね。

ただ、専用機にすると汎用用途にするよりも小型で安価に作れることという知見は得られました。以後、13号機以降は導入時点で専用機、つまりマルチロールを目的にしていないマシンはすべて専用用途設計となり、マルチロールでもないのに転用を見込んで汎用用途設計で自作することはなくなりました。

ただ、専用用途であっても20号機や35号機のような搭載ストレージ数や増設スロット数が求められる用途のマシンは、専用用途であってもどうしても汎用用途に近い構成になってしまう現実があります。

専用機設計ってどうなの?

これは私の意見ですが、単一用途のマシンは特化した専用設計で作るべきだと思います。マルチロールが要求されるマシン以外を汎用用途設計で組むのはおすすめしません。

理由は単純です。用途変更なんてほとんどしないからです。私の自作機はベアボーンやNUC、ATX規格の市販機も入れると30台以上ありますが、ライフサイクルの中で実際に転用(用途変更)したのは16, 19, 29, 30号機だけです。

そしてこの中で元は汎用設計と言えるのは16号機の1台だけです。それ以外は専用用途設計です。まぁ汎用設計と言っても16号機の実体はNECの安鯖です。特に汎用用途向けに設計したわけではありません。単に買った時点で中身は汎用用途向けの構成だったと言うだけです。

つまり、30台もあるのに全体で転用したのはたったの13%、しかも用途変更前提の構成で実際に用途変更したのはたったの4%未満なのが過去の実績というわけです。たった4%のために使うかどうかわからない部分にコストをかけて、大型の筺体を用意する汎用設計でPCを構築するのが妥当か否かという話です。

なぜ転用されないのか?

では何故転用されないのか?を考えてみましたがこんなところです。

  • 元の用途が消えない。
  • 問題の無いケースは更改して使われ続ける。
  • 運用年数が長い。

そもそも転用や用途変更というのはそのマシンの元の用途が無くなるから出来る話です。

しかし、元の用途がそんな簡単に消えてなくなるかというと、それはまずありません。そもそも専用用途機はマシンを買ってまで導入します。また汎用用途設計のマシン、つまりマルチロール機は様々な用途に耐えるべくそれなりに建造費が高額で用途もいっぱいあります。つまり、専用用途設計だろうが、汎用用途設計だろうが、元の用途が消えることほとんどありません。

数年に一度ですが更改というイベントがありますので、その時にもそのマシンの用途が無くなる時期が来ます。ただ、更改というのはケースが問題なければ、中身だけ入れ替える更改が1番楽です。なので、更改ではPC一式が余るということはなかなか無いわけです。ある場合はそのケースは問題ありで、元の用途では困るが転用先で問題がないという希少なパターン以外では使い道がないわけです。

そして、私の場合、安定した構成は運用年数が長いことが挙げられます。

マシンを他の用途に転用するには転用先でも運用に耐えられるだけのスペックが必要です。言わずもがなと思いますが、運用年数が長いとこれが結構厳しくなってきます。

極端な例ですが、例えばN100という2023年のCPUがあります。2024年に組んだ37〜39号機で使っています。N100はIntel 12世代のAlderlakeに相当するCPUで、PコアがなくEコアだけの構成です。このEコアの性能はIntel第6世代のSkylakeと同等の性能とも言われています。Skylakeと言わないまでも2013年ごろのIntel第4世代のHaswellであってもi7-4770Kでもフルパワーでぶん回せばベンチレベルでは負けるとも劣らない部分があり、同等と言って差し支えないパフォーマンスがあります。

じゃあN100と同等に近い性能を叩き出せるからといってIntel Core i7-4770Kが2026年でも実用的かというと答えはNoです。i7なので消費電力がN100とは比べ物にならないほど高いですし、冷却が必要なのでやかましいです。またメモリは4枚は積まないと(37〜39号機と同じ)32GBになりません。もうこれだけでも嫌です。PCI Expressも良くてVersion 3です。2026年基準ではあきらかに見劣りします。また、長年使われているとなると故障も心配です。

こんな感じで運用年数が長いと性能自体はなんとか足りたとしても、新造してしまった方が総合的に見て有利になってしまいます。

こんな感じで転用を見据えても、安定した構成であれば用途がなくならない。用途がなくなっても使い込まれていると買い換えた方がメリットがある。こんな感じで転用されることが少ないのが私の環境です。

これでは転用を見据えた設計がなくなるのも残当だということです。

11号機の防塵対策方法

ここからは防塵の話です。

実は防塵は8号機でも一部試験的に入れていて、8号機の一部の吸気ファンには金属製の吸気フィルタ(こんな感じのやつ)を入れていました。ただ、8号機のファンはフロントパネル内部に付いていて電源ONや筐体を閉めたでは清掃が困難だったため、その反省を活かして外から容易に触れられるところにフィルタを付けることにしました。

11号機はブック型ケースで、5.25インチベイはCDドライブのフロントベゼルがそのまま露出する造りだったので、この5.25インチベイを光学ドライブを搭載せず空けたままにしてそこを主吸気口とし、FDDドライブベイのFD挿入口を副の吸気口とすることにしました。

フィルタは使い捨てマスクを解体して、中層に配置された不織布であるメルトブローン不織布(参考: THE MAKING(319) 不織布マスクができるまで by 科学技術振興機構)を取り出してこれを3M スコッチの「はってはがせるテープ」で吸気口に貼り付けていました。

フィルタに使い捨てマスクを利用したのは調達コストと加工(カット)のしやすさからです。フィルタは交換が不可避なので調達コストを無視するわけにはいきませんでした。中層を使ったのは、マスクのフィルタは中層が薄く、残存応力が小さいためです。マスクはプリーツ構造をとっています。外層は厚くてどうしてもプリーツの折り返しの残存応力が大きいため、3Mスコッチのようなあまり粘着性のないテープでは剥がれる可能性がありました。なので比較的薄くて、ゴミの通過がしにくいであろう中層を使っています。

3M スコッチの「はってはがせるテープ」は剥がして張り替えるという前提だったため糊残りが少ないものを探した結果です。まぁ今ならスリオンテープとか使いますが、当時の知識や調査力ではこんなもんということです。

23,000円で建造した11号機にはこんな感じで初めて本格的な防塵対策を行い、5号機の後継としてNetBSDをインストールして前線に送り出し、サーバ切り替え作業を経て稼働を始めたというわけです。

11号機の防塵対策の知見

ではこの防塵方法がどうかというと失敗でした。

どんな点が失敗だったかというと、「フィルタという交換しなければならないエレメント」を使用しているのにも関わらず交換のタイミングが非常にわかりにくいことでした。そのためフィルタの交換時期を逸してしまい、フィルタの通気損が激増しました。その結果、吸気口が吸気口として機能しなくなり、挙句筐体の隙間という隙間から空気を吸い始めて隙間という隙間が埃だらけになってしまいました。

フィルタは不織布で機体の正面に貼っていたんですが、このケースは前後方向に貫通部がありませんでした。排気ファンは上部にありましたがパンチングの下にありケース内に光が入りにくくフィルタの色の変化が非常にわかりにくかったです。設置場所も暗かったこともありケース内部が真っ暗に近いものでした。つまり前面に不織布こそありましたが、奥が真っ暗なのでフィルタの色の変化までは気付きにくいという欠点がありました。

実際、引退後にフィルタを外して見ると全然色違うやんって思ったのですが運用中は気付きませんでした。まぁ、色が少しついてるなぁぐらいの認識はあったのですが、どれぐらい汚れいているかがわかりにくかったです。

得られた知見としては「フィルタをつけるとちゃんと防塵できる」。しかし「フィルタの交換時がわからないといずれ詰まって機能しなくなる」でした。後継の13号機以降はこの11号機で得た知見を元に防塵が行われます。

ちなみに、知見がある割に、19号機でも同じような構成をとってやはりフィルタが詰まりました。これは別枠で語りたいと思います。

まとめ

11号機建造から20年経つため、当時の状況を踏まえて専用設計という概念の誕生と汎用用途設計で専用機を作る無理加減、並びに防塵の実証実験機だったこと20年記念に書いてみました。

専用機を汎用設計で作るデメリット、防塵対策としてフィルタを使うことの知見について、皆様の糧になればと思います。

防塵は続きがあるので別枠で続けたいと思います。

HPを開設した理由

ハンドル名に続き、ウェブサイト開設25周年記念として、25年前にHPを開設した理由や経緯について話します。これもハンドル名同様記憶を頼りにしていて、何か正確な記録が文章であるわけではないのでなんか不正確だったり前回と整合性がない部分はご容赦ください。

HPを作った直接的な理由は自己紹介にもある通りで、当時契約していたプロバイダが容量をくれたからです。これ自体は別に嘘も偽りもない事実です。というかきっかけ…トリガー…直接的な理由はそれなので正しいです。ただ、自己紹介では当時の背景を結構色々端折って雑に書いてるので、今日はそれを補足します。

この容量というのは10MBでした。現在では下手すると画像1枚すら入るか怪しい容量ですが、2000年当時のWEBサイトやメールボックスの容量としてはよくある容量で、100MBは「大容量」と言っても過言でも誇大広告でもなんでもない時代でした。

ちなみに、どうでもいいんですが、そのプロバイダというのはエンドレスネットというプロバイダで、ルミーズの前身です。また、容量をくれた当時は「エンドレスアドバンス インターネット事業部」という名前で、どうもエンドレスアドバンスの事業の一つという感じでした。これはいつの間にか株式会社エンドレスネットに変わっていました。

また、今は変わってしまいましたが、まだエンドレスネット株式会社があった時代のエンドレスネット株式会社のウェブサイトのドメイン(www.endless.ne.jp)のAレコードと、エンドレスアドバンス株式会社の(www.endless-sport.co.jp)のドメインのAレコードは第3オクテットまでは全く同じで、第四オクテットの末尾の桁の数が1つだか2つ違うだけでした。

というか今調べたら今でも第2オクテットまでは同じで、同一のホスティング業者使ってますね。ただ、現在の両者の関係は特に調べていないので謎です。

<digの結果>
www.endless-sport.co.jp. 86283	IN	A	119.245.185.4
remise.jp.		300	IN	A	119.245.147.223
※理由はわかりませんがTTLが結構違いますね。。。

<Whoisの当該アドレスの結果>
inetnum:        119.245.185.0 - 119.245.185.255
netname:        RENTALSV-NET
descr:          Server Hosting Service                         (NTTPCCommunications,Inc.)

inetnum:        119.245.147.0 - 119.245.147.255
netname:        RENTALSV-NET
descr:          Server Hosting Service (NTTPCCommunications,Inc.)
※/24で切られてますが119.245.0.0/16全体が同じ持ち主で、持ち主はInfoSphere(NTT PC)。

ホームページ作成計画

おっと、話が逸れましたね・・・元に戻します。このサイトは2000年05月15日開設ですが、Webサイトを作る計画は1998年末頃には既にありました。これは2号機の紹介やハンドル名の紹介のところでも触れています。

このWebサイトを作る計画は2つの要素がありました。それは
1つめは「Yuaiho名義で【Yuaiho Softwareと言う名前のHP】を作る
2つめは開設したHPで【自作のソフトウェア(HyperCardスタック)を公開】する
というものでした。

こちらのハンドルの由来でも触れたようにこの計画の2つの要素のうち、2番目の要素である【自作のソフトウェア(HyperCardスタック)を公開】の部分はポシャりました。まぁ、前述の通り、絵心も技術力もアイディアも碌に無いのにスタックが完成するわけがありません。残当です。

そして、というか、しかし、というか”HP容量を貰えた”といのをきっかけにして残った1番目の【Yuaiho Softwareと言う名前のHP】を作るの部分だけを無理矢理実行に移してHPを開設しました。これが今の「Yuaiho17」です。開設当時は「YuaihoのHome Page」と称していました。これが、「HP容量を貰えたから作った」と言う理由の裏にある理由です。

つまりどういうことか?

つまり、ホームページ/ウェブサイトを作って公開する本来の目的が消えたのにも関わらず、なんとかHPだけそれっぽく作って公開し(ちゃっ)たということです。「見切り発車」「無計画」「向こう見ず」「やっつけ」という感じですね。三つ子の魂100までと言いますが、少なくとも25年程度ではあまり変わらないようです。

まぁ上では格好よく「計画」とか言っちゃってますが、実際は単に目標とか構想に近い物で、当然の如く計画書やWBS・線表のようなものはありませんでした。

この目標とか構想に近い計画のような何かを実行に移すと決めたのは2000年の4月頃だったと思います。実行に移すと決めた時点ではサイト名も未定ですし、公開できるHTMLファイルはたったの1ファイルたりともありませんでした。というか決まっていたのはURLとトップページの背景色だけです。まぁ、URLはISPと契約した時点で決まっていたので別に私が決めたわけではないですね。

もう一つだけ決めていた背景色ですが、これはYuaiho Softwareの構想時点で「トップページの背景色はピンク色にする」ということだけは何故か決めていました。理由は不明ですが、まぁたぶん単なる好みでしょうね。今のトップページの背景色(#ffe1fc)はこの構想を実行に移したもので、開設以来全く同じ背景色を延々と使い続けてます。WayBackMachine見るとわかりますが、どの年も背景色だけは同じです背景色だけでなくホームに並んでるコンテンツも20年以上変わり映えしませんけどね。

この背景色、永らく使ってますが決め方は結構いーかげんで、Color Picker(Macのシステムで標準的に実装されているカラーパレット)からピンクっぽい色を適当(雑)に選んだものです。たぶん誰も気にしていないと思うのですが、ホーム以外は背景色は2020年以降に作成したコンテンツでもほぼすべてがWebセーフカラーなのに、ホームだけが頑なにWebセーフカラーではないのはこれが理由です。まぁ、当時は四半世紀後も存続するなんて思ってないのでこの辺りは適当(=いーげん、雑)です。

今見るとピンクというより赤紫っぽく見えると思いますが、これは当時使っていたCRTモニタの色温度が9300Kだったせいだと思います。9300Kだと青みが強いので薄い紫〜ピンクになります。今はsRGBにしてるので見え方変わっちゃってますね。

ほとんど見えないこのブログのピンクっぽい背景色も実はこの色です。

見切り発車だったので開設当初はネタがあるはずはなく必死でネタ探しして作って公開してました。初期のコンテンツが取って付けたかのようにいまいち短くて雑なのはそう言う背景です。まぁ、あれでも一応オリジナルコンテンツですし、短く見えるののは今基準だからであって、当時のウィンドウサイズ(SVGA=800×600)基準としては十分な長さに見えたんですけどね。

公開当初はYuaihoのHome Pageというサイト名でしたが、リンクしていただいた時に字面がダサいと思ったので1年ぐらいでYuaiho17に変更しました。

こんな感じで今から25年前の2000年5月15日(月)にYuaihoのHome Pageというサイト名でひっそりと開設して今に至ります。ひっそりとか言いつつ当時はQ&A掲示板の署名欄で広報してましたけどね。5/15という日付や特に意味はありません。強いて言えばこの日にやっと公開できる形になった、というところでしょうか。

まとめ

まとめるとこんな感じです。

今なきHYPERCARD PARKで活躍されているスタック作家さんみ見た若きYuaihoは、こんな計画を立てました。【Yuaiho名義で「1. (Yuaiho Softwareと言う名前の)HPを作って」「2. そこで自作のソフトウェア(スタック)を公開する」】と。

しかし諸々の残念な理由で2番目の要素は実現困難になり、計画の目的(公開するもの)は消失。

でも、HPを持ちたくて仕方なかったYuaihoは、ISPに容量を貰えたこときっかけに、手段を目的化してなんとかそれ以外のコンテンツで2000年05月15日にHPデビュー。見切り発車だったので最初はネタに苦労しました。
 
まとめるとかなり酷い内容ですね。

その後、HyperCardスタックは完成しませんでしたが、結局はHP公開の3年後の2003年から習作レベルですが自作プログラムの公開を始めました。2003年までHP作る機運やキッカケがなかったらこのサイトはちゃんとYuaiho Softwareになっていたかも知れません。

今後

最近はレンタルサーバの維持費よりもドメイン維持費の方が高いのですが、とりあえず私が死ぬか、ドメイン周りにトラブルが出るか、ドメイン更新忘れるorなんらかの理由で出来なくなるまではWebサイト自体は存続すると思います。

Xを見てると私どころかこのサイトよりも若い方がいて、そういう方々を見るとこのサイトも永くやってるなーという気分になります。

ジオシティーズ、Infoseek、So-net、IIJ4Uと言った大手のHP公開サービスの終了で 20世紀から存続するサイトは大量絶滅してしまいました。また、いち個人が公開するコンテンツもSNSやnote.comやqiita等の台頭でこのサイトのような(非営利・趣味の)個人サイトは絶滅危惧種とまで言われています。

実際、前世紀から運営している個人サイトを探すのは有名どころ以外は結構難しいですし、前世紀と言わずとも2000年代初頭であっても普通にレアなレベルです。というか、まぁ、あるはあるんですが、ラーダ・ニーヴァの如く原型保ってるサイトは結構希少だったりしますし、古い話で困った時に頼れる最後の砦が個人サイトだったりしますので、コンテンツは充実させつつもあまり雰囲気を変えずに残せたらなと思ってます。

ハンドル名の由来 Yuaihoの友愛は粛清!?由来を徹底解説します!

中身の薄い動画やブログみたいなタイトルを付けましたが、Yuaiho17は今日(2025年05月15日)でサイト開設25年になります。25周年記念としてハンドル名などの解説をしていきたいと思います。

私のプロフィールはここです。

雑が感じが否めない自己紹介ですが、開設時からあまり変わっていないのと、2000年ぐらいの(所謂)個人サイトはどこもこんなテイストでした。気合い入ってる人は「<作者のハンドル>に100の質問」みたいな内容が公開していました。懐かしいですね。あれはちょっと作ろうかなと思いましたが、私は非公開にしてる内容が多いのと、30個目ぐらいで面倒になってやりませんでした。

ハンドル名

名前は通常表記がYuaihoで、正式にはAikinsetsu Yuaiho(※)/愛金雪 遊愛宝(友愛宝)/あいきんせつ ゆうあいほうです。フルネームとしては「Aikinsetsu Yuaiho」なんですが、Twitter以外ではほぼYuaihoの部分のみを使ってます。ちなみにWikipediaだけはAikinsetsuです。愛金雪の方が日本で言うところの姓で、遊愛宝が名部分部分に相当します。

元は命名当時にNINTENDO 64用のソフトであるファミスタ64(Wikipeida)で使ってたプレイヤー名をそのまんまハンドル名にしました。漢字3文字なのはファミスタ64の名前の文字数制限が姓名それぞれ3文字までだったことに由来します。つまり、そのあたりの時期に作ったハンドルというわけです。

英語表記は「Aikinsetsu Yuaiho」なので英語でも姓・名順表記です。2025年現在では公用文章でも採用されている英語の姓名表記ですが、命名した90年代末では結構マイナーな表記方法でした。一応理由はあります(後述)が、まぁそう決めたという感じが強いです。

Yuaiho(名前部分/通称)の意味

ハンドル名としてメインで使用している名の部分のYuaiho/遊愛宝は「ゆうあいほう」と読みます。Yuaihoをそのまま読むとゆあいほですが、読みは「ゆうあいほう」です。とうきょうをTokyoと書くのと同じような感じです。

当て字感のあるが漢字表記ですが、実際には前述のようにYuaihoの当て字ではなく漢字の「遊愛宝」方が先に作ってあって、それを読んだものをローマ字っぽく書いただけのものです。

意味はほぼ漢字そのまんまです。自堕落な感じですね。この辺りは今でも変わっていません。漢字表記は遊愛宝と友愛宝の2通りあって、一応前者を正式なものと定義しています。ただ作者自身があまりこだわってないのでサイト内でも揺れてます。実は遊の漢字は暫く間違えて覚えていて、当初は辶に族でした。

Ainkinsetsu(姓部分)の意味

姓部分のAikinsetsu/愛金雪は「あいきんせつ」と読みます。

これも名の部分同様に漢字の方が先にあって、それをローマ字っぽく書いただけ名前です。上述のファミスタ64では姓部分が必要だったので雑に付与したのがが由来です。

雑というのは愛金雪は遊愛宝と異なり、読みにも漢字にも特に意味がありません。あいうえお順で先頭(出席番号1番)を狙えて、漢字3文字で、独特かつそこまで非現実的でもない(と当時思った)名前を選んでいます。英語表記でも姓名順表記なのは、名簿で先頭が視野に入るからそう決めたという感じです。まぁ今考えると「愛金雪なんてDQNな姓なんて日本人にいねーよ」とは思いますけどね。

Aikinsetsuの方は単独ではほとんど使っていません。Wikipediaでは使っていますが記事がありませんが。

名前を考えたのは正確な記録はありませんが、姓名どちらも1998年頃に考えた名前です。(私の方が先に使い始めているので)友愛に粛清の意味はありませんし、20世紀少年(の民友党)も無関係です。

ただ、独自性は結構気にして作ったのは事実です。これは命名当時(1998年)にやっていたNHK連続テレビ小説の天うららの主人公の名前である「川嶋うらら(演・須藤理彩氏)」の影響を多分に受けています。

Yuaihoの命名の雑な歴史

このハンドル名はサイトの開設と密接に絡んでます。

サイト開設の話は次にしますが、ざっと説明するとハンドル名を策定した当時、HYPERCARD PARKというサイトがありました。このサイトは現存しませんがアーカイブを残されてる方がいます。

HyperCardがなんたるかの説明はWikipedia先生に譲るとして、そのHYPERCARD PARKにはスタック作家と呼ばれる方々がいっぱい居て、そこに自作のプログラム(スタック)を公開していました。本筋とはずれますし、そのHYPERCARD PARKには居なかったと思いますがsta氏こと、妹尾泰隆氏も所謂スタック作家さんの一人でしたね(当時はやすりん名義)。

私も当時そのHYPERCARD PARKやそのリンクからスタックをダウンロードして、HyperTalkがプログラミングのイロハのイの文字のてっぺん辺り触れているうちに、自分も何かHYPERCARDで公開できるものを作って公開したいと思うようになりました。

もし、スタック自作して、それを公開した時に使う予定として計画してたハンドル名こそが今も使ってるYuaihoです。ちなみに、サイト名は当初はYuaiho Softwareになる予定でした。

高いような低いような志を持ったところまではいいのですが、絵心も技術力もアイディアも碌に無いのに、公開できるソフトウェアなんて当然出来るはずもありません。そのため勿論計画は頓挫しました。まぁ、残当です。というか残念すぎる絵心・技術力・アイディアで無理やり計画を走らせたら黒歴史になっただけだと思います。

そんな感じでプログラム書いてプログラマ(スタック作家)になってHPを公開してという計画的で無計画な計画は頓挫しましたが、そのために用意した「Yuaiho」と言うハンドル名と、ハンドル名に一緒に使う予定だった「Aikinsetsu」というなんか残骸みたいなものを25年以上も運用をしているのが、今も使っているAikinsetsu Yuaihoというハンドルです。

YuaihoまたはAikinsetsu、Aikinsetsu Yuaiho名義の活動の場は、2025年現在では本サイトとTwitterのみです。スプラトゥーン3をやってること自体は公言していますが、名義はYuaihoではありませんので、もし居たらどれも私ではありません(名義は非公開です)。

次回はWebサイトを開設した理由でも書こうと思います。

割と危なかった秋葉原通り魔事件

 2008年にあった秋葉原通り魔事件の犯人(加藤智大死刑囚)の死刑が今日執行されたみたいですね(産経新聞)。色々ある方もいると思いますが、犯人がこの世からいなくなり一旦幕引きという感じでしょうか。

 この先はまぁ昔話です。

 この事件があったのは2008年06月08日の日曜日です。私は当時15号機を建造中でした。15号機のパーツ一式自体は同年06月04日に秋葉原で買ったですが、稼働前のチェックでmemtestとMHDD(※1)の試験がパスせず、建造が遅れていました。

※1: MHDDとは不良セクタの検査用ソフトで、HDDの全セクタを走査して各セクタ(ブロック?)の読み込み時間を収集するソフトです。50[ms]以上がモリモリ出ると不良品か寿命です。最近というか、AFTになった頃辺りからはこの試験やってないです。

 まぁ、要はメモリとHDDが不良品だったんですね。不良品は交換してもらわないといけないので、この事件があった06月08日に秋葉原に行く予定を立ててました。06月07日は土曜日でしたが色々予定があって行くことが出来ませんでした。

 この当時はよく一緒に秋葉原に行っていた友人(※2)がいて、特に理由がなければなければ06月08日の大体11時ぐらいに集合して一緒に行く予定でした。まぁ、後述のせいで約束してませんでしたが。

※2: ちなみに12号機を一緒に組んだ友人と同一人物。

 で、その秋葉行く予定ですが、前日の06月07日に飲み過ぎてしまって、残念な感じに潰れてしまいました。なんとか家に辿り着いて目が覚めたら、すでに事件が起きたあとの13時過ぎでした。

 目が覚めて『なんか携帯に着信とメールがやったら多いな。誰か亡くなったのかな?』と寝ぼけながら確認すると、心配した親や友人からの大量の着信でした。
 最初はよくわかりませんでしたが、上記の友人から「秋葉原で大変なことになってるよ」って言われてネットか何かで確認したら、秋葉原で通り魔事件があったことを知り、大量に着信があった理由を把握しました。

 まぁ、要するに前日酔いつぶれていなければ時間的にほぼ間違いなく事件に巻き込まれてたってことですね。危なかったです。まぁ前日のは潰れたと言うか実際は酔い潰されたというのが正しいんですが、結果的には助かりましたね。
 ぶっちゃけベンチで寝てた時は死ぬかと思いましたが、道路か担架の上で死ぬかと思ってたor死んでた可能性があるよりは全然マシだったと言うことですね。

 そして、その事件があった時間帯は二日酔いで寝てた(事実上音信不通になっていた)ので事件に巻き込まれてないかとめちゃくちゃ心配されました。親に会うと「あの時はすごく心配したんだぞ。」って今でも言われます。

 後日談というか余談ですが、15号機の建造は急いでいたので、この事件発生後、事件は見なかったことにして、その当日に前述の友人と秋葉原行って不良品パーツを交換しました。

 事件日に交換されたパーツというと何かいわく付きな感じがしなくもありませんが、特に問題なく試験はパスし、15号機は無事06月14日に落成しました。現役だった約8年間も特に大きな問題もなく2016年の引退まで普通に安定稼働してました。まぁCPUがVIA C7なんで遅かったですが。

 そして、事件の後に当日秋葉原に行ったことを聞いた私の父が「事件後に行くなんて何考えてるんだ!」と激おこ憤慨丸だった、と後に母に聞かされました。

失敗の自由研究

 今日は私の昔話です。

 私がまだ子供だった時分は概ね今日ぐらいの時期から夏休みでした。そして私も当時の他の小中学生に漏れず自由研究という宿題がありました。

 まぁ自由研究というのは酷い宿題だと思います。研究というのはそれ自体が生業になるぐらいの行為なのに、学校では研究とは何かを1ミリも触れず家庭に丸投げですからね。個人的には研究について、学校で一定のルールは教えるべきだと感じます。まぁ時代が違うので今はちゃんと教えるのかもしれませんが。 

 さて御宅は置いといて本題です。私も中学1年の時、理科の“夏休み宿題”で自由研究の宿題がありました。
 小学校の自由研究はゴミみたいな工作でお茶を濁してましたが、中学生になると理科の課題として出ます。要はそれなりに科学的な内容を求められます。つまりゴミみたいなオブジェ作ってお茶濁せないというわけですね。

 まぁ、結局ゴミみたいなオブジェを作ってしまうんですが。

 当時、自由研究の課題があると知った親が、参考になるような本を買ってきてくれててました。親にはこのブログは見せてませんが、親には感謝ですね。わざわざ金出して楽な道を用意してくれてたわけんですからね。
 しかし、「丸パクリは価値(オリジナリティ)がないので嫌だ」って言う謎のポリシーは今も当時も健在だったので自分の頭使って捻り出して考えました。

 そして熟考と言えるに足る十分な時間を使って考えたテーマは「雑草の押し花を作って、名前や科を調べよう」と言うものでした。
 コンセプト(テーマ)は「普段は見向きもしない雑草(草花)にも名前とかはあるはずなので、調べて分類してみよう」だったと思います。

 今思い返すと数十に満たない雑草を単に分類した所で、一体どのあたりが研究なのかサッパリなわけですが、中学1年の12歳だか13歳のYuaiho少年はオリジナリティ溢れるナイスなコンセプトだと思ったわけですね。まぁ浅はかでしたねぇ。

 結果としてはやって激しく後悔しました。

 まず押し花作る時点で大変でした。押し花作る工程も大概面倒臭いんですが、その前段の「重複せずに集める」のがクッソ大変でした。大体、今でも開花してないたんぽぽとなずなの違いを素で出されて「見分けろ」と言われても難しいです。
 そんなレベルで、それまで大して植物に興味もなければ、見向きもしかなかった雑草を見分けるのは至難の技でした。

 調べて分類のはもっと大変でした。皆さん日本の野草って何種類あると思いますか?20〜30ぐらい?いいえ、図鑑にあるだけでも400種類以上あります。
 400種類ならなんとかなりそうな気もしますが、野草図鑑(雑草図鑑)は花が咲く時期で分類されています。
 しかし、集めた野草の花が咲いているとは限りません。その時たまたま咲いてないのか、季節外れだからかわかりませんが、花が咲いていない雑草はごく普通にあります。というか咲いてる方が少ないです。まぁ咲いてるんだか何だかよくわからない雑草もありますけど。

 当時はカメラや画像からいい感じに検索してくれるようなスマートな検索エンジンもデバイスもありませんでした。よって調べ方と言えばサンプル(押し花)片手に図鑑全ページに総当たりかけて調べるしかないわけですね。今はいい時代ですね。
 
 もちろん、その図鑑に手元の調べようとしている草花が掲載されている担保はどこにもないわけで、1サンプル探すだけで1時間近くかかった記憶があります。押し花は30サンプルぐらい作った気がするので、めっちゃ時間かかりました。
 幸い祖母が野草をよく知ってたので知識借りて(チート)で半分ぐらいは埋めましたが、それでも2〜3割は「不明」とか「図鑑になかった」のようなひどく雑な記載で提出したと思います。

 そして苦行・苦心の末出来た成果物は科と名前だけ書かれた“押し花帳”(2〜3割は「不明」とか「図鑑になかった」のようなひどく雑な記載有り)という実に映えないものでした。別に植物研究家の方をdisる気は毛頭ありませんが、少なくとも目を引くような、(苦労の割に)頑張った感のある内容ではなかったです。まぁ、想定も考察も何もなかったですからね。

 そして、私の映えない成果とは対照的に、優秀なクラスメイトはA0ぐらいの模造紙一杯にフルカラーで高校生とも見紛うような内容を出していたのとは雲泥の差でした。
 それどころか、如何にも手抜きしそうなクラスメイトがやっぱり予想通りA4の白紙3枚ぐらいで手間・コストを最小で作って纏めた実験レポートの方が、今考えると私の単に「押し花帳作って名前調べました。以上」みたいな不出来な内容よりも遥かに理科的・科学的でした。
 始業式の私の心は2学期開始からして既に、ヘルマン・ヘッセ作の「少年の日の思い出」の後半あたりで出てくるクジャクヤママユみたいでしたね。

 これが私の中学時代の自由研究でした。

 このパッとしない成果物(押し花帳)ですが、今でも実家の部屋の隅で眠っています。まぁ見返しても汚いですし、残念な感じしかしません。

 苦労の割に残念な結果に終わった自由研究ですが、今でもコンセプト(だけ)は良かったと思います。普段なら見過ごしてしまうものに着目すると言うのは研究のあり方のひとつだと思ってます。

 中学1年の終わりで理科の先生が代わってしまい、その後自由研究という宿題はありませんでした。中学時代に戻ってみたいと思うことがないわけではありませんが、自由研究は二度とやりたくないです。

核兵器禁止条約不参加

核兵器禁止条約、初の締約国会合で不参加日本は不参加だそうで。

 核保有国はいないから参加しないことはまぁ一応筋は通っているとは思いますが、核保有国が加入するように被爆国として汗かけやって声もあるみたいです。

 核兵器といえば私が行ってた学校では平和教育(原爆について)がありました。原爆以外バージョンもありましたが、どっちも内容はよくある「当時生きていた方の体験を聞きましょう」的な感じですね。
 どっちにしても戦争は悲惨だ。2度とすべきではない。という割と結論ありきのやつです。

 肝心の話の内容は忘れてしまったわけですが、それより前に聞いた原爆以外バージョンのほうが凄惨すぎて今でもそっちのほうは覚えています。
 たぶん、原爆バージョンも大概悲惨だったはずですが、覚えていないということはあまり伝わらなかったってことですかね。話す力や伝える力って大事です。

 まぁ結論ありきの平和教育は別にいいのですが、どちらも今考えると悲惨な結果を招いた「プロセス部分」についてはついぞ振り返られることはありませんでした。

 原爆死没者慰霊碑にあるらしい(※)「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の過ちが何を指すのかは正直謎で肝心の広島市ですら趣旨は説明しても意味については回答していない有様ですが、少なくとも繰り返さないというのを再発防止観点では考えるなら戦争という事態を招いたプロセスや戦争のプロセスが問題では?と思います。

※あるらしい: 一応実物は見たはずなんですが・・・。

 プロセスを振り返ることなく、悲惨な側面の強調が再発防止になるのか?というのは今になって考えると疑問です。

M2 MBA/MBPのリリースとメモリ餓鬼道の思い出

M2 MBA/MBPのリリース

 今週はM2のMBA/MBPが出ましたね。

 M1 Macはメモリ量がネックでしたが、ユーザの声が大きかったのか何かよく知りませんが、MBAでも上限を24GBまで上げてきました。私はMBAもMBPも買うつもりはありませんが、メモリ量でApple SiliconのMacを躊躇してた人には割と朗報だと思います。

 私はIntel版Mac mini 2018を使っていますが、これは前述のように搭載メモリ量の問題ですね。M1 Macminiがどんなに凄くて、AppleのNVMe SSDがどんなに速くて、macOSのメモリの使用効率がどんなに効率的でも、メモリを盛った状態で16GBは少なくて厳しいなぁ思います。

 こんな感じで搭載メモリでマシンを評価するぐらい私は”メモリ積みたがり”です。必要かどうかはとりあえず置いておいて最大容量か、最大容量まで積む傾向があります。自認しています。
 これは所有機にも現れてて、極端に搭載量が多い23号機を抜いても、背景色が緑の行の現役機/現役期は平均で16GB搭載しています。まぁ容量優先なのでクロックやメーカは拘りが薄いんですが。
 こうなった原因はメモリ不足の歴史(思い出)ですね。特に足りなかったのは2号機と3号機と8号機でした。前者2つはもうトラウマ級に足りませんでした。

メモリ餓鬼道へ

 最初の2号機のMacintosh LC IIは1998年当時としても少ない10MBしかメモリが搭載できず、しかもこの10MBが最大容量でした。今無きConnectixのRAM Doublerという謎技術を使った仮想メモリの機能拡張で頑張ってました、が、肝心のSWAP先のHDD(100MB)は遅いため当然swapが発動すると動作は劇遅でした。
 メモリを食うソフト、特にブラウザ(Netsacpe Navigator 2.02)は忘れた頃に起動してるような有様でした。CPUが68030の16MHzしかなかったので「一旦起動したら速い」なんてことも全くなく、起動してもバリバリ低速でした。

 3号機のMacintosh LC 475も当初は12MBと2号機から2MB増えたもののIE2.0よりさらにメモリ大食いのNetscape Navigator 3.03や4.0その他もろもろを動かしてました。
 2号機に比べればまだマシだったものの、RAM Doubler使っててもやっぱりSWAPしまくりで、そのSwap先のHDDはやっぱり遅かったです。残当ですが、ブラウザ等のメモリを食うアプリケーションは起動が呆れるほど遅く延々と船の操舵輪と灯台ビーム(※)を見せられてた記憶があります。こっちは2号機と違ったのは流石に68LC040 25MHzだったので、一旦起動するとそれなりには動きました。

(※操舵輪・灯台ビーム: どちらもNetscape起動時のスプラッシュウィンドウに描かれてた絵(guidebookgallery.orgより)のことです。Netscape Navigator 2.02や3.02が操舵輪で、Netscape Communicator 4系が灯台でした。)

 5号機のPower Mac G4はその鬱積を晴らすべく、2002年ぐらいには早々にメモリを706MB以上に上げました。が、これも途中でメモリ価格高騰に煽られ、結局最大容量の2GB化(※)したのは2010年代に入ってからでした。
 この2002年でこのメモリ量は多いほうです。同時期ぐらいのハイエンド帯に属するPC(Logitechのサイトより)でもせいぜい512MBです。溜まってますねw

(※2GB化: G4/Sawtoothの最大搭載メモリは2GBです。ちゃんとOS9でも2GB積んでることは認識されます。ただ、OS9では1.5GBまでしか使えないので、「このコンピュータについて」では残り512MB分はMacOSが使ってることになってます。正確に言うとOSが使ってる分に512MBが足されます。)

 8号機の自作機は金が無い中建造したのでメモリに回す資金が無く、G4から64GB外してきて運用していました。64MBでWindows2000は、さっきの2台ほどではありませんがやっぱりSWAPしっぱなしで特にログオンとアプリケーション切替は爆遅でした。

 まぁ2010年代に入るまでだいたいメモリが足りていなかったんですね。メモリがいっぱい欲しくて仕方なかったわけです。

 2012年に23号機が32GBで新造するまでは(一応の解決を見た機材もいくつかありましたが)こんな感じでずーっとメモリ不足か、メモリ高騰で悩まされて続けてました。
 この23号機の32GBですが、これ書いてる2022年でも32GB搭載されていればクライアントPCとしてはそれなりに多い方だと思います。この容量を2012年にすでに導入してるあたりメモリ量への熱いパトスがひしひし感じられらと思いますw。
ちなみに、同価格帯、同世代ぐらいの市販機上位モデル(ITmediaより)でも標準4GBとかそんなもんです(23号機とほぼ同じ価格)。

 32GBはさすがに不足ということは無くなりましたが、とらいえずこんな感じでメモリに悩んで来たので、メモリを盛れないor盛れても上限低いとちょっと食指動かないなーというのがApple Silicon系Macに持ってるイメージですね。

 今回のリリースはノートPCでメモリ容量を24GBに緩和してきたので上記はどちらかと言うとデスクトップモデルのMacminiに向けたものですね。まぁMacminiはAppleの放置プレイが激しいのでしばらく搭載メモリ上限増えそうには無さそうですが。

 というか、22号機のMacBook Air 2011だってせめてメモリが8GBあれば引退なんかさせずWindows専用機にしてこき使ってたと思います。やはりメモリは餓鬼道ですね。